ジジネタ、別に爺のネタではない。時事ネタです。もっぱらニートビーツはハンカチ王子になろうぜキャンペーン中。そんな訳ないか。なぜか青いハンカチをプレゼントされたりで、阪神応援に甲子園で使おうかと思っております。この間実家に帰り、我が犬、ロック君とも再会。公園が近いので、東京にロックが来た際は案内してやろうと思う。ペットショップも近くにあるので服でも買ってやるか。先日そのペットショップで話をしていた時、坂東さんの子猫殺しの話になった。「板東でーす、株はもうかりまっせー」の板東さんではない。知っている人は知っていると思うが、日経新聞でタヒチに暮らす作家板東さんが、私は崖から子猫を落として殺している、と書いたという話題。ペットショップの店員さんはえーらい怒っていたが、加熱しすぎるペットブームという世界で片付ける問題でもない気もする。人間と動物、食に関わっている気もするから。ただ今は単純に犬猫は牛豚鶏とは違う気がする。昔は赤犬とか言って日本も犬を食べたり、実際今でも中国とかでは食べているし、猫を食べている国もある。ただ文化で考えると日本はもうそういう事をしない文化なのだ。昔はどうだったか??...それは昔。今は今。誰もが思う。過剰なペット文化、愛護、過保護、確かに今はそういう文化かもしれない。ペットOKのカフェに行けば、人間より先に犬の水が出てくるくらいだから。そういった今の文化に反発するのはOK。いわゆるみんな動物は家畜として成立して、犬猫殺して何が悪い??食べるもんなくなったら犬猫食うだろ??というのも当然の意見だから。ただあまりにも極端で、ゆとりや夢がない。今は食べるもんなくなっても犬猫は食わない人はたくさんいると思う。オレの祖母は昔何匹も猫を飼っていた。猫達は自由に暮らしていて、祖母は猫にもどうぞお好きに!!といった感じだった。祖母曰く、「猫は死期が迫ると、自ら家を出て行くのよ」と教えられた。なんとなくかっこいいと思ったものだ。いわゆるゆとり、夢の部分。生きているか死んでいるか分からない。その想いが正しい。動物、人間共通でその想いは正しい。昔の友達なら「あいつどうしてるんかなあ??」猫なら「猫出て行ったけどどうしてるんかなあ??」魚なら「あいつ川に放したたけど元気に泳いでるかな??」極端に言えばどちらにしても生きているか死んでいるか分からないのだ。でも、事実が分からなくてもどうしてんだろーと自分が死ぬまでずっと思うわけでそこが大切な気がする。先日公園に解放した旧住人のカエルでもそうだ。公園に放したが、生きているか死んでるかは分からない。オレの選択はせまい水槽で飼うなら...このまま家が壊されて彼がそんな理由で息絶えるなら、彼のためにも冒険した方がいいだった。もともと野生だしね。単純に崖から落とすなら放した方がいい。野生なら絶対その選択肢を選ぶし、飼い猫の子供なら尚更だ。もし子供が増えて困ったとしても、飼い主はいわゆる親なので、ある時期までは面倒みますよ、でも大人になったらがんばってね。家は子だくさんで家計が大変だからって事でいいと思うんですけど。殺すくらいならね。犬猫が子供を増やすのは当然の本性だから、それは止められない。じゃあ人間はどうなんだよ!?!?人間に例えると中絶する人はいるけど(それを殺したという解釈する人もいるが)、生まれてから殺す人はいないよ。たまにある事件以外は。増えたから困る。減らす。じゃあ最初から飼わんでええやないのんーと思うなあ。まあ色々意見はあるから難しいね。強制的、正誤関係なく、小学校の時にある程度道徳の時間を受けていれば多少なりともそんな言葉は出てこないなあと。昔カブトムシやクワガタを飼っていて、昆虫ですら死んだ時はとても悲しかったけどなあ。
多分、板東さんは小学生時代に「終わりの会」がとても面倒な人だったのかも知れない。多分こんな感じだろうか?
クラスメイト「先生!板東さんが子猫を殺しました。それはいけないと思います。」
先生「板東さん、それはいけない事です。反省しましょう」
坂東さん「何で悪いんですか?」
そんな小学生はやだ。
しかし、「子猫を殺す」という言葉。言葉遣いが甘いなあ。単純に話題性はあるが。オレは「殺す」という言葉の正しい使い方は「オマエを目で殺す」が一番正しいと思っている。